2009/12/10
新宿でちんぴら時代に知り合ったプロデューサーに弟子入りした。学校出ていないのでコンプレックスだらけ。弁当運びとか、機材担いだり、馬みたいに走りまくってました。助監督になって25、6歳の時、一本撮らないかという人がいて。ヒットしたら次から次と仕事が来た。
営業のためピンク映画を使って、反権力映画を撮ってるつもりだった。(周りに)学生運動の連中が出入りするようになって。警察のガサ入れもしょっちゅう。
僕の映画は政治的だったり、暴力的でエロチックだったり。(配給会社が)簡単に引き受けてくれなかった。大島渚なんかと一緒に飲んでいると、「自由にかけられる劇場があったらなあ」。迎合しないで、自分の作品を作り続けるために。
たまたま名古屋の河合塾の講師に知り合いがいまして。「名駅近くに物件があるから、何かやってみませんか」と。監督で映画館を持っているのはいないから、僕が第1号としてつくっちゃおうと。
支配人とは「1年間は赤字を持つ。それ以上は赤字を出さないようやりなさい」と約束した。いろんな店にパンフレットを置いたり、24時間頑張ってやらないと客が付かないよと。
マニアックでも、毎日何人か来てくれる作品を選ぶようにしてもらった。最初はピンクもやったし、とにかくアジア映画をやろうと。中国映画を日本に広めたのは支配人の力じゃないですか。
(元日本兵が戦争犯罪を追及する映画の)「ゆきゆきて、神軍」。右翼を怖がって(多くの映画館が)やらなかった。「断固やるから心配するな。やれっ」と言ってね。そしたらヒットした。
一時、韓国映画に走っちゃった。つまらなくなってもやるわけ。義理とか人情でやっていたら経営が駄目になるぞ、と話したことがあります。
映画は誰でも撮れる。お金さえあれば。「実録・連合赤軍」は土地、家を担保に入れて1億くらい集めた。友人から借金もしたり。だからばくちです。
一番安心できるのは下請けですよ。絶対に損しない。おれも(制作会社の)言うことを聞いて素直にやるかな、と思ったりする時もありましたよ。そこに行っちゃったら楽だから。それだけはやらない。映画をやめる。何やっても飯は食っていけるから。
【わかまつ・こうじ】宮城県南郷農業高校(現南郷高校)を1年で中退し上京。63年に「甘い罠」で監督としてデビュー。作品に「完全なる飼育 赤い殺意」など。「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」はベルリン国際映画祭の最優秀アジア映画賞などを受賞。83年にJR名古屋駅西の映画館「シネマスコーレ」を設立し、社長に就任。08年4月から取締役。73歳。宮城県出身。
転職・求人情報検索(名古屋市・愛知県・岐阜県・三重県)はトップから