2008年秋のリーマン・ショック後、勤務していた浜松市内の工場の仕事を失った日系ブラジル人のミヤケ・シジネイさん(40)が、農業に転身して一年半になる。自動車部品の製造現場から生活は一変したが、野菜を作る日常にも慣れてきた。農園経営はまだ不安定だが、畑の規模を少しずつ広げようと努めている。 (白山泉)
航空自衛隊浜松基地を飛び立つ飛行機がごう音を響かせる同市西区伊左地町。約2000平方メートルの土地に2つの小さな温室ハウスがたつ。「ミヤケファーム」と名付けた畑で栽培しているのは、赤い根菜の「ビーツ」やクレソンなど。ブラジルの食卓になじみのある野菜が中心だ。これを店舗代わりの二トントラックの荷台に並べて、焼津市や愛知県豊橋市のブラジル人コミュニティーを訪ねて、販売している。
勤めていた自動車部品工場を雇い止めになったのは4年前。リーマン・ショックのあおりを受けた製造業が軒並み業績を落としていたころだ。仕事がなくなって連日、ハローワークに通ったが、どこを探しても工場の仕事は見つからなかった。
ミヤケさんは、「デカセギ」のブラジル人として1995年に来日。リーマン・ショック後、浜松市に出稼ぎに来ていたブラジル人は相次いで日本を去った。独身のミヤケさんが日本を離れなかった理由は「大きな仕事をやって国に帰る。それが日本に来た目的だった」からだ。
「すぐに良くなるだろう」と高をくくっていた景気は、上向かない。数カ月後、派遣会社がようやく紹介してくれた仕事は「野菜の売り歩き」。ブラジル人が多く住む南区の中田島団地を上から下まで歩く。すると、両手に抱えた数十キロの野菜が瞬く間に売れていった。自分の「商才」に気付いた。
「自分で野菜を育てれば好きなだけ売れる」。知人を通じて、休耕地になっていた畑を借りた。母国で農業に取り組んだ父親の姿を思い出しながら、野菜栽培の試行錯誤を重ねた。1年半かかり、品質の良い野菜ができるようになってきた。
経営はまだ厳しく、黒字と赤字の間を行き来している。最近は、製造業の景気が回復してきたため、たまに工場でアルバイトする。この収入がなければ肥料も買えない。新しい農機具も欲しい。畑も広げて、もっと多くの野菜を作って売りたい。そのために、アルバイト代を少しずつためている。
雇い止めに遭って4年になるが、親切な人との出会いもあり生活は充実している。「生活苦で死んでしまったブラジル人もいたが、ぼくは今のところ生活に困っていない。良い野菜を作ってお客さんを喜ばせたい」。ミヤケさんは、収穫した野菜を自慢げに持ち上げ、控えめな笑顔で言った。
◆製造業従事者は減少 浜松市のブラジル人
3月末現在で約1万2000人。リーマン・ショック以降、減少の一途で、2005年と比べると3割以上減った。製造業の不振で、関連する仕事が大幅に減ったのが主な原因だ。国勢調査の産業別就業者によると、市内で製造業に就いているのは05年の約5600人から、10年は2500人と半数以下に減少。一方、サービス業や宿泊業、飲食業などの従事者が増えている。農業従事者は10年は16人で、05年比では倍増しているが少数だ。